
※この記事は『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ〈ワルプルギスの廻天〉』のネタバレを全面的に含みます。未見の方はご注意ください。
13年ぶりの新作でしたが、何かを特に期待して行ったわけではありません。前作『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』の終わり方に不満はなかったためです。
また、この13年で他の作品からもたくさん影響を受けましたし、何より歳を重ねて、思春期の頃のように自分の価値観がひっくり返るような体験を作品に求めなくなった、というのが素直なところです。
そのうえで、観終わった感想は「好き」でした。
一度しか観ていないので記憶違いもあると思います。これは「一度観た人間の記録」として読んでください。
映像と、構成の話
世界観とアニメーションは本当に素晴らしかったです。劇団イヌカレーの異空間は相変わらず圧倒的で、2026年のクオリティでまどマギを観られたことには純粋に感謝しています。
解釈を観客に丸投げしてくる方向性も、私は嫌いではありません。全部説明されて終わるほうがつまらない。
ただ、構成はあまり上手くないと思ってしまいました。
前半、新キャラクター三人の掘り下げにかなりの時間を使います。その分、後半が駆け足に感じられた。クライマックスにもう少し尺が欲しかった、というのが正直なところです。情報量も多く、一度の鑑賞では処理しきれませんでした。
とはいえ、好きか嫌いかで言えば、好きです。以下はその話をします。
名前を呼んだ、最初の人
この映画の主役はマルグリートだと思っています。
かつて、まどかとまったく同じ願いを持った少女がいました。すべての魔法少女を救いたい、と。彼女の名前がマルグリートです。まどかより遥かに昔、まだ「魔女」という形式すら存在しなかった頃の人。
当時、力を使い果たした少女たちは、ただ呪いの姿を残すだけの、誰のものとも分からない何かになっていました。名前も、個性もない。
マルグリートは、その呪いを引き受けました。そして――彼女たちの名前を呼んだ。
そこから魔女に個別性が生まれ、名塚底根が成立した。そういう整理であっているかはわかりませんが、私はこれで腑に落ちました。名塚底根は、名前を失った少女に名前と姿を与え直す場所です。
つまりマルグリートは、誰にも救われなかった少女たちの名前を呼んだ最初の人なんです。あなたは誰々だ、と言った最初の人。
そして、その代償に自分の名前を忘れました。名前のない少女、ワスになった。
救済を発明した人が、救済されないまま放置される。この時点でもう十分に酷い話だと思います。
少し整理しておきます。ワルプルギスの夜は、公式には「複数の魔女の集合体」とされています。TV版の頃の公式説明では「誰も知らない誰かたちの集合体」でした。中身は、マルグリートと、彼女が引き受けた呪い。
そして「ワス」という呼び名。ワルプルギスの略にも読めますが、ラテン語の vās には「器」「容器」という意味があるそうです。集合体という性質と符合する、と書かれている方がいて、なるほどと思いました。
器には名前がない。器は誰でもないので。そして、その中にいるマルグリートの名前は、外からは見えない。
ちなみに、魔女文字を解読されている方によれば、ワスの指輪には ANONYMOUS と書かれているそうです。名前がない者、という意味の語です。公式の説明ではありませんが、これを知ってしまうと、制作が意図したものでしょう。
円環システムと、円環まどか
ここで、この記事の中だけの呼び分けをさせてください。
『叛逆の物語』のラストで、ほむらは円環の理からまどかを引き剥がしました。公式の説明によれば、ほむらが奪ったのは「人としての記憶」です。
そうすると、残ったほうは何なのか。
私の読みでは、魔法少女が魔女になる前に理へと導く、それだけの機構になったのだと思います。仕事はする。法則としては正常に動いている。でも、そこにいたはずの鹿目まどかがいない。
この記事では、それを 円環システム と呼びます。そして、鹿目まどかがまだそこにいた頃の、一人ひとりに優しさを向けてくれるほうを 円環まどか と呼びます。
実際、今作に出てくる円環の理は、言葉をひとつも発しません。機械のような存在でした。
魔法少女を救ってはいる。でも、名前を呼んでくれない。
ほむらがまどかから奪ったのは、まどか一人ではなかった。世界から、呼んでくれる人がいなくなったということでもあった。私はそう受け取りました。
ワスは、まどかを「マルグリート」と呼んでいた
ワスはまどかのことを、マルグリートと呼びます。救済者であるマルグリートを、円環の理の核であるまどかに重ねていたから、という整理をされている方がいました。
これはつまり、彼女にとって「マルグリート」がもう固有名詞ではなくなっているということです。
自分の名前を忘れたとき、名前だけが本人から剥がれて残った。そして残った名前は、「救済者」を意味する普通名詞になってしまった。だから救済者を見つけると、その相手をマルグリートと呼ぶ。
数百年間、彼女は自分の名前で他人を呼び続けていたわけです。それが自分の名前だとも気づかずに。
そしてこの呼び方は、彼女がまどかを何として見ていたかも示しています。役割です。救済者という機能の、現在の担当者。機能なら、誰が担当でも同じはずです。
名前を呼ばれる場面
この映画で一番好きなのは、まどかがマルグリートの名前を呼ぶ場面です。
「あなたの名前はマルグリート」
これは新しく名付けたのでも、思い出させたのでもありません。彼女が他人に貸し出していた自分の名前を、本人に返している。
ワスはずっと「あなたがマルグリートだ」と言い続けてきた。まどかは「いいえ、あなたがマルグリートです」と返した。
この場面には回想が挿入されます。
溶け合った魂の集合体の中から、一人の少女が取り出される。金髪でそばかすのある修道女。マルグリート。
名前を呼ぶというのは、溶けてしまったものの中から一人を見つけ出すことなんだと、この場面を観て思いました。
彼女が他の少女たちにしてきたことを、最後にまどかが彼女に返した。数百年越しです。ここだけで、この映画を観てよかったと思いました。
そして、ここからが大事なところだと思っています。
救われた側の実感としては、自分を救ったのは「円環の理」です。救われる瞬間に現れるのは円環まどかなので、それ以上の区別のしようがない。ワスも、たぶんずっとそう思っていた。だからまどかを役割の名前で呼んでいた。
でも、鹿目まどか本人と向かい合って、名前を呼ばれて、彼女は気づいたんじゃないでしょうか。
円環の理は、鹿目まどかという一人の少女が作ったものだった。あの優しさは、仕組みが持っていた機能ではなく、この子のものだった。
だとすれば、鹿目まどかの抜けた円環システムでは、本当の意味では誰も救えない。
円環システムよりも円環まどかが、円環まどかよりも鹿目まどかが上にくる。 マルグリートの中で、そういう順番になったのだと思います。
これは彼女だからこそ気づけたことでもあります。マルグリートは名前を呼んだ最初の人で、呼ぶという行為に何が必要かを、誰よりも知っている人だから。
ワスがまどかを円環に戻したがっていたのは、たぶん円環を壊すためではなく、元に戻すためでした。壊れているのは円環のほうで、足りない部品が鹿目まどかだと思っていた。でも実際に会ってみたら、部品ではなく本人のほうが答えだった。
だから最後、彼女はほむらの背中を押します。ほむらはまどかを円環から引き剥がした側で、ワスとは正反対のことをやってきた人なのに。
転向したというより、優先順位が変わっただけなんだと思います。二人が本当に望んでいたのは、鹿目まどかが鹿目まどかでいることだった。
なお、ワスの目的が何だったのかは、公式にはっきり書かれているわけではありません。以上は私が受け取ったものです。
クリームヒルト・グレートヒェン
まどかが魔女化した姿の真名は「クリームヒルト・グレートヒェン」です。この グレートヒェン は、ドイツ語で マルガレーテ ―― つまりマルグリートの愛称形なんですよね。
グレートヒェンには「小さなマルグリート」の意味が込められていて、自分を救済するものの名前に、かつて救済者だった自分の名前を当てはめる形になっている、と。
ワスがまどかをマルグリートと呼ぶのは、間違いではあるけれど、的外れでもなかったわけです。TVシリーズの頃から、まどかの中にマルグリートの名前は入っていた。
ずっと置かれていたものが、こんな形で意味を持つとは思っていませんでした。
同じことをしている人が、もう一人いる
ここまで書いて気づいたのですが、まどかがマルグリートにやったことを、ずっとやり続けている人がいます。
暁美ほむらです。
世界はまどかを「円環の理」と呼びます。役割の名前で。ワスがまどかを「マルグリート」と呼んでいたのと、まったく同じ構図です。
ほむらだけが、彼女を「鹿目まどか」と呼び続けている。
| 呼ばれる人 | 役割で呼ぶ世界 | 名前で呼ぶ人 | |
|---|---|---|---|
| 過去 | マルグリート | 救済者 | 鹿目まどか |
| 現在 | 鹿目まどか | 円環の理 | 暁美ほむら |
つまりマルグリートを救ったあの場面で、まどかはほむらが自分にやり続けてきたことを、自分の手でやってみせたことになります。
だから、さやかのあの台詞が刺さるんです。
「あんただけは!まどかを円環の理って呼ぶな!」
最初は応援の言葉だと思っていました。違いますね。役割の指名です。
この場面のほむらは、まどか自身から愛を否定され、自分のやってきたことが鹿目まどかそのものを壊しかねないと突きつけられて、一度は折れかけています。そこにさやかが来て、正しさではなくエゴを貫けと言う。そのうえで「あんただけは」と限定する。
他の誰でもない、名前を呼ぶ役はあんたの仕事だと。
そしてこれを言うのが、さやかだというのが効いています。彼女は円環の使者として、理の側にいたことがある人です。今はそこから抜けて、現世にいる。円環の中がどういう場所か知っている人が、外から言っている。
この映画で、ほむらは悪魔と呼ばれ、敵として扱われます。でもさやかは、ほむらがやっていることの本質を名指しした。ここは本当に良かった。「さやほむ」が流行るのも頷ける。
「私はここにいるよ」
ここは解釈が割れるところだと思います。私が受け取ったのは、メリーバッドエンドでした。
ラストの流れを、覚えている限りで書きます。
ほむらが円環に攻撃を仕掛ける。次のカットで、ベンチにいるまどかに膝枕されて眠るほむらが映ります。ここだけ見ると、ほむらが勝ったように見える。
でもその次のカットで、円環がほむらを吹き飛ばす。膝枕は、そこで取り消されます。
そしてまどかが涙を流し、円環に向かって何かを訴える。その声は、こちらには聞こえません。
相手は、言葉を発しない機構です。答えられない相手に向かって、彼女は必死に何かを言っている。
そして、まどかが消える瞬間。
「私はここにいるよ」
声だけが響きます。ほむらは寝たままです。
TVシリーズ最終話でも、まどかは似たことをほむらに伝えていました。これからの自分はいつでもどこにでもいる、見えなくても聞こえなくてもそばにいる、と。
でもあのとき、ほむらは起きていました。その言葉を聞いて、記憶を持って生きていった。
今回は、届いていません。
この場面を「概念としてどこにでもいるのではなく、個としてここにいてくれた」と読んでいる方がいて、それは救いのある読みだと思います。
ただ私には、まどかが円環の理に戻った演出にしか見えませんでした。
終盤、まどかの言葉は二度、相手に届いていません。一度目は答えられない機構に。二度目は眠っているほむらに。名前を呼ぶことについての映画で、最後に言葉が届かなくなる。
そして、ほむらは穏やかな顔で眠ったまま残されます。
私にはこの寝顔の理由が、ほむらからまどかの記憶が消えたから、としか思えませんでした。あれだけのものを背負ってきた人が、あんな顔で眠れる理由が他に思いつかなかった。
ただ、記憶を失っただけなら、この映画の着地としては弱いんです。
ほむらがまどかの記憶を失うということは、まどかを名前で呼ぶ人が世界からいなくなるということです。
この映画は、それがどれだけ残酷なことかを、ずっと描いてきました。数百年間、誰にも名前を呼ばれなかった少女がどうなるかを、マルグリートで見せた。そのうえで、同じことをまどかにやった。
だから「まどか、それでいいのか」という声が上がるのも当然だと思います。観客は、それが何を意味するかをこの映画自身から教わっているので。
まどか役の悠木碧さんは、まどかがほむらに人生の主導権を返そうとしている人物だと語っていて、そちらなら「共依存からの自立」の物語になります。
ただ、パッと見て依存しているのはほむらのほうで、まどかがほむらに依存しているようには見えません。
でも、思い出してください。まどかはTVシリーズのラストで、ほむらにだけ記憶を残しました。
自分を鹿目まどかと呼んでくれる人を、彼女は一人だけ世界に残した。これを共依存と呼ぶなら、その解釈もありだと思います。二人を繋いでいたのは、互いに相手の名前を呼べる唯一の相手だったということになるので。
ただ、そう読んだところで、残酷さは何も変わりません。
まどかはほむらに呼ばれなくなり、ほむらはまどかの記憶を失う。どちらの方向からも、名前が途切れている。
描かれなかったこと
ここでもう一度、不満の話をします。
この映画、ラストを端折りすぎだと思っています。
まどかが消えて、ほむらが眠ったままで終わる。では、マルグリートたちはどうなったのか。あの場にいた仲間たちは、今回起きたことを覚えているのか。それとも忘れてしまったのか。
一切描かれません。
これが一番引っかかっています。なぜなら、名前を呼ばれて数百年ぶりにマルグリートに戻った少女が、それを保持できたのかどうか分からないからです。
名前を覚えていてもらうことについての映画が、一番大事な一人について、覚えていられたかどうかを描かずに終わる。
尺が足りなかっただけなのか、わざと空けた余白なのかは分かりません。ただ、私が一番良かったと思った場面の続きが見られなかったのは、単純に残念でした。
鳴り続ける電話
そして最後のカットです。
籠の中に置かれた電話。カメラが籠の内側に入り、そこへ手が伸びてくる。誰の手かは分かりません。
次のカットは別の場所で、受話器が外れたまま垂れ下がった電話が、鳴っている。
ちなみにこの映画、電話が何種類か出てきます。ほむらが作った「トカゲさん電話」、籠の中の「スカディ電話」、そしてまどかの家でワスが出現させたもの。最後に映るのは、ほむらの電話ではないようです。
観た直後の私は、これを「まどかが電話番を引き継いだ」のだと思いました。ほむらはもう眠っていて、電話を取る人がいない。だからまどかがその席に座り、いつかほむらがかけてくるのを待つ。そういう話なのだと。
その後いろいろ読むうちに、分からなくなりました。あの手はほむらだという人、まどかだという人、円環の理だという人がいる。手は白くて大きかったという記述もあり、それなら円環側かもしれません。そもそも電話の系統が違うなら、電話番を引き継ぐという私の読みも成り立たなくなります。
パンフレットには、籠の中のスカディ電話について「お前がまだ救っていない者がいる」という説明があります。もしそうなら、最後に映るあれは、救済する側を呼び出す電話ということになります。
余談ですが、ゲーム「魔法少女まどか☆マギカ Magia Exedra」に見た目が似た電話が登場します。私はこのゲームに明るくありませんが、その電話は並行世界と繋がる電話だそう。
結局、誰の手かは分かりませんでした。
そして、たぶんここが最後の逃げ道なんです。
まどかは名前を呼ばれなくなり、ほむらは記憶を失った。名前は両方向から途切れて、マルグリートのその後も描かれない。この映画をハッピーに解釈できる余地は、あの手の正体にしか残っていません。
名前についての映画が、最後に名前のない手で終わる。そして別の場所で、まだ誰も取っていない電話が鳴り続けている。
あれを誰の手だと呼ぶかは、観た人に委ねられているのだと思います。
私は、あれがまどかの手であってほしいと思っています。名前を呼ばれて鹿目まどかに戻った人が、今度は呼ばれるのを待つ側に回る。そういう話であってほしい。
余白、あるいは気になって仕方ないこと
最後に、主題とは関係ないけれど気になっていることを少しだけ。
ラスト、見滝原は巨大な壁に囲まれていて、その外は荒野になっています。誰がいつ作ったのかも、私にははっきり分かりませんでした。
引っかかっているのは、壁より荒野のほうです。
あれ、今回が初めてではないんですよね。TVシリーズ最終話のラスト、魔獣と対峙するほむらの周りも荒野でした。『叛逆』でキュゥべえの観測施設があったのも荒野の中です。
しかも気づいてしまったんですが、荒野が映るのは全部、まどかが円環の理になった後なんです。魔女が数百年存在していた時代に、見滝原の外が砂漠だったという描写はない。
もしかすると、まどかが円環の理になった代償が、あの荒野なのかもしれない。
たぶん考えすぎだし、答えも出ません。でも、あの背景をずっと「雰囲気」だと思って見てきたので、今になって落ち着かなくなっています。
というわけで、モヤモヤを抱えたまま、まだこの映画のことを考えています。
たぶんそれが、この映画の正しい観方なんだろうと思いつつ。




















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